守破離を貫いた仙人
自分の知らないことを
すでに習得している人は、
素晴らしいと感じる
何歳になっても、
先生と生徒の関係でなくとも
「すごいと思える人」
と、たくさん出会う
そのような中にあっても
ある種専門的で特殊な分野を目指す時、
手段がわからないと
模索している時
私たちは、指導者を探す
それは良しとし、
指導者が師匠となり(自分を師匠だと位置付け)
他の指導者や流儀に排他的な
師匠の弟子となることには
重々注意した方が良い
このような関係にあっては、
独自の境地の開拓に困難を来すからだ
弟子は、
「先生はすごい!先生を超えることはできない!」
と言い、
師匠に至っては、
「弟子は師匠を超えることはできません。だから、師匠というのです」
と、わけのわからない道理を言い出す始末だ
本来、
弟子は、
師匠を超えることを目標とし
実際に、超えることもできる
師匠は、
弟子に自分を超えてくれるよう願い導く存在であるはずだ
何らかの形で弟子は
師匠の想像を超えた何かを
会得しなければ
自立できない
健全な師匠(指導者)は、
「守破離」
を決して忘れない
守 師の流儀・型を習い身につける段階
破 他流も研究する
その型を自分と照らし合わせ、
良いと思われる型を取り入れ
既存の型を破り
心技を発展させる段階
離 自己の研究を集大成し、
独自の境地を拓いて
一流を編み出し、
型から離れる段階
伝統を保守するような業界より、
新しいことを
作り出し続けるような業界では、
特に必要なことだ
「守」ばかりさせられていては、
自分が師匠の劣化コピーになっているのさえ気づかないだろう
師匠に媚び
コピーしきれないほどの技を
エンドレスに学び続ける
これでは、
いくら頑張っても
自立という終わりが見えてくるはずもない
師匠だって、
守破離を経て
現在の境地にたどり着いたはずなのに、
自分が教授する段になると
それができないのだ
自分がどう進めばいいのかわからなくなったとき
習うばかりで、自分がどう進歩しているのか、本当に技術が身についているのかわからなくなったとき(師匠の褒め言葉以外から、その証拠を見つけらないとき)
疑問や違和感を呑み込まず
自分の依存心、
指導者の支配欲
(レッスン料を払っているのなら)
指導者の利欲を疑ってみることだ
何のためにレッスンを受けているのか、
なぜこの関係を続けているのか、
よくよく自分自身に問うてみる
今年8月に
私が最も尊敬する神戸の仙人が
急逝した
「守破離」を見事に実践した人物だった
(自分を師匠だとも言わないし、生徒に弟子という言い方を決してしなかったが、あえて師弟の言葉を使わせていただくと)
師匠は、
弟子が自分を超えるのが楽しみだと言った
それは、師匠が、自身を磨く理由の一つだった
自分のやり方以外に否定的ではなかった
むしろ、痛い目にあったとしても、色々なところで沢山学ぶよう言われた
師匠超えをさせるため、ある時点で、わざと自分から弟子を離した
離した後も、必要な助けには、手を差し伸べた
以下は至極当然のことだが、
お気に入りの弟子を作らず、皆に平等で
自分のところへ通わない者を非難して、現存する弟子を囲い込むようなことは決してなかった
軽はずみに人のプライベートの話をしないし、聞かれもしなかった
(人のプライベートな話をしたがる、知りたがるのは、無意識に、それを知り得ている自分という優越感に浸るため、そして聞き耳を立てる相手を自分に引き付けるためだ)
弟子からの褒め言葉だけを拾い、気持ちよくなったりしなかった
師匠の指導に誘導するような言葉を使うこともなかった
「どこで教わるかではなく、誰に教わるか」
よもや、講師本人が言う言葉ではあるまい
ところで、
浄土真宗の宗祖である親鸞上人の周りには、
たくさんの弟子がいた
しかし、当の親鸞上人は、
私に弟子は1人もいない
と仰った
「己の力で救えるのならば、わが弟子、ともいえよう。じゃが、阿弥陀如来のお力によらねば、アリ一匹、救われないのだからのぉ。それを己の弟子と思うなど、言語道断、断じてあってはならぬこと」 親鸞上人
弟子は、
基本的な型を身につけた後は
自分の内面と向き合い、
自身の特質を見つけ、
それを際立たせるような研究と訓練をし、
独自の世界観を自ら作り上げていく
師匠は、弟子を手放す時を知り、
世界観の構築の邪魔をせず信じて見守る
これが
健全な師弟のあり方ではないだろうか
神戸の仙人が亡くなって改めて
師匠の師匠たるべき姿を
見せてもらったことに
心から感謝している
四十九日が過ぎないと
違うかたちでの再会ができないけれど
再会したとしても
「あとは頼むで〜がんばりや〜」
と、右手をあげて、
仏の許へ消えていくだろう
神戸の仙人老師へ…深謝、合掌
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